訳詞上演について~オペレッタの場合

  日本でオペラを上演する場合、原語で上演し字幕で日本語訳を表示するのと、日本語訳詞によって上演するのと、大まかに言って二つの方法がある。(ごく稀に、原語で上演しながら字幕を出さないやり方や、日本語で歌いながら同じ日本語を字幕で出す公演もあるが、ここでは触れない)最近では原語上演が圧倒的に主流だといわれるが、小さい団体や市民オペラなどまで範囲を広げて考えると必ずしもそうであるとは言えないようである。そして、原語上演にしても訳詞上演にしても、常にその是非がいろいろな意味で話題になる。

 訳詞上演に対する批判としては、原語の持っているニュアンスが損なわれるという意見、(広義な意味での)ベルカントな声を前提としたメロディーや歌唱法と日本語がそぐなわいという意見、せっかく日本語で歌っていても結局何を歌っているのか聞き取れないという意見などがある。一方、原語上演に対ししては、字幕を見なければならないことで舞台や音楽への集中が妨げられるという意見、そしてこれは創り手の問題であるが、母国語でない言葉を使って細かいところまで徹底した表現が出来ないのではないかという意見もある。

 日本でオペレッタが上演される場合、そしてそれが日本人出演者による公演である場合、訳詞上演によるものが多い。完全に原語でのオペレッタ公演を観ることが出来るのは、来日する海外の団体か新国立劇場くらいだろう。

 どうしてオペレッタの場合はオペラと違って例外なく訳詞上演されるのか。そのことはオペレッタの本質的な特徴によるものと、上演する側の都合によるものの二つの理由による。

 オペレッタはオペラに比べてリアルな演劇としての要素が強い。題材そのものからしてそうだし、実際に舞台の上で交わされる歌詞や台詞も、具体的で細かいやり取りが多い。こういった事情から、リアルタイムで観客が理解できる言葉で演じる必要が生まれるのである。たとえばモーツァルトやイタリアのベルカント・オペラの叙情的なアリアなどでは、数行の叙情的な歌詞が繰り返しあらわれる。こういった歌の場合は、字幕をチラッと見さえすれば歌っている内容を理解するに十分な情報が得られることが多い。ところがこれがオペレッタになると、その程度では内容を把握することはできない。

 オペレッタには多くのオペラに無い台詞がある。もちろん『魔笛』や『魔弾の射手』といった台詞を伴った例はオペラにもあるが、量的にも内容的にも比較にならないレヴェルである。簡単に言えば、映画で要求されるくらいのリアルな演技が外国語でなされなければならないということである。そのレヴェルにかなった歌手やスタッフは、残念ながらそう多くはいないだろう。

 オリジナルと同じように字幕を伴わずに原語で上演されるのはひとつの理想だ。しかし、上演する側はもちろんのこと、観客も字幕や解説が無くても作品をきちんと理解できるだけの準備を済ませておかなければ不可能だ。しかしこれでは専門家や一部のマニアのみが楽しめるだけで、オペレッタは「誰でも楽しむことが出来るエンターテイメント」ではなくなってしまう。やはり日本でオペレッタを上演する場合、日本語の訳詞・台詞によるのはいまのところベストな選択肢ではないだろうか。

 日本語で歌ってきちんと観客に伝わるかどうかは、多くの部分を訳詞の出来に左右される。そのまま台詞として読んでも自然に聞こえるような、リアルな日本語であること。メロディーと原語の歌詞が持っていた密接なつながり(抑揚や単語とメロディーの切れ目などの一致)を、出来る限り生かしたものであること。言葉の割り振りが、歌手が歌った場合に言葉として聞き取りやすいような配慮がされていること。理想的なオペレッタの上演には理想的な歌詞がまず必要だ。

 また、イタリア語やドイツ語といった外国語の歌唱法に比べて、日本語の歌唱法というものが表現者側の中であいまいな点も多い。これはオペレッタに限ったことではないが、音楽的な歌唱を維持しながら日本語で歌うことのできる方法の研究は急務であるといえる。